悠々談談

日々思うことを、つらづらと

映画「ゴジラ−1.0」を鑑賞しました

 以下映画ゴジラ−1のネタバレ大いに含みます。

 

 この映画でゴジラはどういう描き方をされるんだろう。1947年にビキニ環礁の米軍による核実験で巨大化した動物。その後ハリウッド含めて様々な場でゴジラは映画でその存在が日本に問うものにどこか不透明感を感じていた。ゴジラってどういう存在?でも、今回のゴジラ−1.0は、そのほつれた糸を解きほぐし、かつ、今の我々に明らかなるメッセージを残してくれた。

    映画の冒頭では、その地に昔から存在する怪獣として「ゴジラ」。それは巨大でもなく、もちろん既存の生物の分類には属さないが、おそらく地域の伝承上の動物としてのゴジラ。ある意味で確かに恐ろしい存在だが、ひょっとしたらいるかもしれないレベルの怪物。それが、米国のビキニ水爆実験で放射能を浴びて巨大化する。いわゆる我々の知る「ゴジラ」になる。

 東京で大暴れするが、日本政府は非力。米軍は対ソ連でここで軍事力を使いたくないと対ゴジラで動かない。何もしない。そこで、民間人が叡智を結集させてゴジラを倒す。

 

 米軍も軍艦がゴジラにやられているし、動くどうりはあったのだが動かない。動けば、ゴジラを産んだのは自らの水爆実験の放射能のせいだとわかるからというのもあったのではないか?そして、情報提供することもない。これはどう見ても米国の意向に沿ったんだろうなと思う。国民より米国重視の政治は2024年の日本の政治外交と何ら変わらない。

 これ以上のネタバレはやめるけど、特攻で死ねなかったことを悔いていた主人公が体当たりの行動で窮地を脱することになる。それは、戦争中のお国のために命を捧げることへのアンチテーゼ。海軍で技官をやっていた男性が立案した作戦が、最後には成功する。 ふと思う。前半で品川から銀座が壊滅状態になる。そこから日本人の叡智が結集されゴジラをやっつける。劇中では300万人が先の大戦出なくなったが、病死、餓死で亡くなった人がおおかった、これ以上人を死なせてはならない、その思いが海軍技官の男性にはあった。自分のために生きるという考えは、国のために死ねを是とする人には受け入れ難いだろうな、とおもうけどね。その意味でもこのメッセージが入ってるだけでもこの映画は評価できる。

 

 2024年の東京、日本はゴジラにやられてはいない。しかし、政治は2世3世議員が好き勝手にやり、霞ヶ関も財界もそれに暗黙の追従しているだけ。可視化されてはいないが、日本は今ズタズタに傷んでいる。為替も対ドルはおろか、世界で日本円より弱い通貨は ロシア、トルコ、アルゼンチンの通貨だけと聞く。国債は1000兆円。これはもう金利を上げれば解決するというレベルではない。そして米国から武器を買い、これから人口は先細りになるというのに、海外にお金をばら撒き。これがドルベースだったりすると、今後の為替の推移いかんではもっとお金がかかる。

 かといって国力というか、国に利益をもたらす産業は第二次産業ばかり。書店に行けばChatGPTの指南書が並ぶが、一歩先を見通した空気はない。そして人口は減少するのに、東アジアで最大の大国中国とはギクシャクしたままだ。でも、日本人個人は優秀。その日本人の叡智が結集すれば、今そこにある難局の打開もそんなに難しくない。ただ、それに待ったをかけているのは古い制度、仕組み。出る杭をうつ社会的空気も。

 

最後のシーンで死んだはずのゴジラの躯体が再生されていくシーンで終わっている。

 

それで私は思った。ゴジラとは、米国、霞ヶ関、永田町が怪物化した存在ではないか?そもそも巨大化したのは米国核兵器のせいだし、これまでのゴジラ映画はゴジラをどこか日本の正義の味方的に捉える傾向もあったけど、主人公が図らずも言った「まだ戦争は終わってない」。現代の我らも同じように言えるのではないか?

 

戦争は終わってない。ゴジラより手強い、米国、霞ヶ関、永田町合体ゴジラを倒すまでは終わったとは言えない。