戦争。国民が生活を犠牲にして、あるいは命を賭けてくのために戦うこと。家が壊され、家族がミサイル攻撃で死に、あるいは戦場で死ぬ。勝っても負けても戦争は国民を犠牲にする。犠牲にしたところで対価は存在しない。戦争に勝っても負けても死んだ人が生き返ることも、ミサイルで壊された我が家が元通りになることはない。国のために戦うとは言う。しかし、その国とは何なのか?
いま、高市首相が在任中に憲法改正したいと言っているが、これこそ、この戦争の本質たる国のあり方に直結する。日本国の最高位の位置に国を置く。そこには政権交代は念頭に置かれていない。あくまでも、高市政権、自民党政治が続くことが前提。スパイ防止法もそうだ。そもそも自民党が下野することは想定されていない。そうとしか考えられない。自らは縛られる側には回ることはないという認識しかない。そして、天皇という存在さえも国の下に置く。
そして、その国を守るために戦争をする。自民党の改憲案は、憲法は政治、行政を縛るものではなく、国民にあるべき国の姿をさし示し、国民を規制する。その動機づけに愛国心を使う。そこには、愛国で戦争を進めた結果、太平洋戦争がどんな結果をもたらしたかの反省は微塵もない。あえて反省があったとするなら、
枢軸国についたのが失敗でした。米国につくべきでした。
そんな反省ではないか。だから、トランプであろうが、バイデンであろうが、言われるがままに米国のために国の形さえ変えようとする。その道具として愛国心を使う。昨今は露骨な対中国外交しかしていないが、中国についてネガティブな情報ばかりを流し、仮想敵としての中国を強く意識させようと必死。その甲斐あって、日本人の嫌中度は8割、9割に上る。そして時に北朝鮮のミサイル。でも、そうやって嫌中心を煽ったところで得られるものはあるのか?軍事力を増強し、さらに徴兵?それを進めるために、憲法改正ということになるのだろう。それは国民の「健康で文化的な最低限度の生活」を破壊するものに他ならない。
戦争は短期にて終わることは稀で、長期戦になってしまう。総力戦で結局のところ、せいも根も尽き果てるまで続くことになる。しかし、資源のない国がそういう戦争をするのはよくない、そういったところから憲法9条になったはずである。その際、国のあり方を憲法はどう想定したか?それは外交だと思う。かつて、福田赳夫首相は全方位外交と言い、日米を基本としながらも、多くの国と外交を重ねた。パレスチナ、そしてイランとも深い繋がりを持ってきた。そうすることによって、国民生活の安定を図ってきた。イランについては、そういう過去の蓄積があったからこそ、アラグチ外相は日本に好意的な姿勢を見せてくれている。
対中国でも、先人は日中友好に尽くしてきた。科学技術分野ではすでに日本は何周遅れ?のレベルである。そんな中国に対する敵愾心を煽ることに何の意味がある?
これから先、自民党政府はいろんな角度から、自衛隊増強のための環境整備として、特に対中国で敵愾心を煽って憲法改正を強くアピールしてくるだろう。でも、そういうベクトルの方向は日本国憲法が考えた方向とは真逆である。今のような政治状況をうまないための憲法改正こそ必要なのかもしれない。
愛国心といえば免罪符なりかねないが、毎日、当たり前のように朝起きて学校に、会社に行き、夜家に帰って家族とご飯を食べる。その繰り返しこそが幸福なのである。作家の野坂昭如は、お茶漬けを食べる自由を奪われることになったら自分は銃を取るといった。そう、毎日お茶漬けが食べられることこそが幸福であり、そういう状態が維持できている国だからこそ愛国になる。愛国意識は人それぞれなのだ。それを政府は国旗損壊罪のように統制のとれた愛国を強制しようとしている。もう、戦争まっしぐらとしか言いようがない状況である。
外交立国日本に舵を切る政治に一刻も早く切り替わってほしい。これが憲法記念日に思うこと。