悠々談談

日々思うことを、つらづらと

ストライキ

私もその日の朝、池袋に立ち寄り写真を撮った。

 

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私が学生のころはストは普通に日常の中にあった。公務員のスト権を認めよというスト権スト。春闘になると国鉄でもストがあり電車が止まった。春闘の時期になると逆にストのない京急小田急が不思議に思えた。ストがなくても順法闘争というのもあった。考えてみれば当たり前なんだが、電車の運行を法律に則って適切に行う。なぜか、そのために電車が遅れたり、ストが終わっても山手線にペタペタとスト決行の張り紙が張り付いていたり。

大学も学費値上げに対して学生がテストをボイコットし、レポート提出になることもザラだった。

 

それが労働組合の総評、同盟が一緒になって連合ができると、ストライキという言葉をメディアで聞かなくなった。戦う労働組合と言われた総評も、牙を抜かれ支持母体の社会党政治勢力たり得なくなったのだから当然か。

 

その間大きな会社のストライキは全くもって聞かなくなった。その間40年。

 

ちょうど失われた30年とかぶる。

 

ストライキは労働者の権利であり、憲法で保障されている。でも、ここ30年。日本社会はどうなったか?格差は進み、非正規雇用が勤労者の半数を占めるに至っている。労働組合はすべての労働者を守る立場ではなくなったのだ。その間、管理職ユニオンという個人で理不尽な会社に立ち向かう人はいたが、大きな力を社会的に発揮できているとは言い難い。

 

今回のそごう西武のストライキは、31日に決行とわかっても、米系投資ファンドの買収がなくなる可能性はなかった。しかし、ここで声を上げたことの意義は大きいのではないか?いま、社会自体が異論を認めない空気に包まれている。それへの息苦しさを感じていた人には、わずかとはいえ光明になったと私は信じたい。