悠々談談

日々思うことを、つらづらと

コロナの不安の中で思うこと

  いつ終わるともしれないコロナ禍。ひっきりなしに流れる各地での感染者をめぐる報道。スーパーに行けば、空の棚の多いこと。今日行ったスーパーは、マスクはもちろんだが、モヤシと納豆が在庫なし。モヤシといえば20円弱で栄養のとれる野菜で保存もきくが、これもなし。そしてレジは濃密接触そのもの。レジに並ぶ人の顔は誰も暗い。そしてカゴはいっぱいに溢れんばかりで、列は伸びるばかり。ドラックストアは殺菌ジェルはなく、マスクも当然のようにない。

 

  桜は散り始めだが、桜も心なしか寂しげに見えなくもない。東京人はお上に従順だから、お花見をするなといわれれば、しない。

 

 その一方で、イタリアは罹患者も死者も多いし、外出禁止になっても、ベランダで歌を歌ったり、DJやったり。許される範囲内で人生している。コロナ?生き抜いてやるさ、の気概を感じるが、その一方で日本社会は暗い。

 

 何故なんだろうと考えて思い当たるのは、日本人は我慢を強いられることに慣れてしまっていること。政府が無理無策でも、じっと耐える。太平洋戦争の時の欲しがりません勝つまでは、がずっと続いている。何に勝つかは分からないが、耐える。石の上にも三年といっては我慢。若い時の苦労は勝手でもと言って我慢。でも我慢した挙句が今の政治であり、経済でありビジネスの有様。人生を楽しむ術を知らないから、政治がコロナで訳のわからないことを言っても、耐えようとする。自己防衛でスーパーに走る。政治に向かって、もっと我らのこと守ってくれよ、とは言わない。Twitterで呟く程度のガス抜きで終わってしまう。

 

 でも日本人はそろそろ目を覚ましたほうがいい。やはり、政治の問題は大きいと思う。たとえば安倍政権が、人生ってなんて素晴らしいんだろうと思える政策を一つでもやってくれたことがあったか?今回だって、布製マスク二枚配布とか、お肉券、お魚券とか、ハテナのつくものばかりが流れてくるだけ。国民は、それらを頼らないと思い、また、耐える。

 

国連事務総長が、世界は全力をあげてコロナ克服に立ち向かうべき時という時に、オリンピック延期と、来年の開催日を決めてしまう。お金という資源を全力をあげでコロナ克服に負けることができない。

 

それでも、文句を言うでなく、ひたすらコロナ禍に苛まれながらも、満員電車にやられて仕事に行く。

 

なんか、ちがうような気がする。

 

耐えてばかりいないで、こんな今の状況はおかしい、ノーだと言うべき時ではないか?日本人も、コロナ禍の終息した後、人生を楽しむ日本社会になってほしいし、そのベクトルを共有出来る政治を取り戻したいと心から想う。

 

3.11以上に厳しくハードな時だが、このコロナ禍は、そのハードさを乗り越えた先に新しい日本社会を作り上げるチャンスの時でもあると思う。