悠々談談

日々思うことを、つらづらと

「戦争」についてかんがえた

 朝起きてご飯を食べて、会社に行き、決まった日にちにお金を対価としてもらいそれで生活し、余剰を貯金し将来にそなえる。子供は一生懸命学校で勉強し、卒業したら会社に入ったり、仕事を起業したり。人間社会はその繰り返し。人間の営みとはそういうものだ。農業、水産業も同様。もちろん、人間関係で悩むこともあるだろう。人間というもの相性はある。ロボットではないのだから、人間の感情も常に一定ではなく、相手がその日に限って気に入らないなんてことは、生きていれば毎日どこかで経験する。社会は会社であれ、学校であれ、無人島で1人で生活してるわけではないのだから当然あることだ。

 それが利害に絡むとか、相手の財産とか持ち物を毀損したりすれば単に人間関係だけならともかく、自分にとっての毎日のルーチンを壊すような所作が関わってくると当人同士では解決は不可能である。その調整役となるのが司法だし、究極の侵害の場合は懲罰を科す。

 

 でも、こういった我々の日常とこの論考のテーマである「戦争」は、この日常の営みとどの様な関係性が見出せるのか?

 

 たとえば、A国とB国がある。A国がB国に戦争を仕掛けるとき、きっかけとなるのは、先制攻撃。自らがそれを仕掛けなくても、相手国から攻撃を受けたと言ったり、潜在的脅威と言って脅威の対象を潰そうとかかる。自分から堂々と戦争を仕掛ける例はない。「やられたら、やりかえす」が戦争の根底にはある。でも「やられた」の解釈は主観的だ。広義の意味では「やられそうだ」もそれに含まれてしまう。一見、国連安保理が本当にやられたのか、それが嘘っぱちか判断すればいいと思いがちだが、それは不可能。そもそも国連と言う組織は第二次世界大戦の連合国が日独伊に睨みをきかせ、第一次世界大戦から第二次世界大戦に至ったような流れを作らせないための組織で、国における議会のように、そこに権力があり、それを担保に国連がまわっているわけではない。だから主要国は拒否権を持ち、それが発動されると何もできない。

 

 では、その「やられた」と自分たちの日常生活は、どう関係性があると言うのか?

 

 戦争とは根底には経済的利権を得ることが目標。太平洋戦争で東南アジアで侵略を繰り返したが、日本軍が進軍する先にはまず商社の駐在員事務所ができた。包囲網を連合軍に敷かれてしまい、石油が入って来なくなりその燃料確保のために進軍を続けていった。国内ではガソリン車が走れなくなり、木炭車が走っていたし、戦争が進むにつれ生活は物資が配給制になり、生活の困窮度は増していった。でも、それは他国にして落としていったのが原因だった。愛国心とか、アジアの国を欧州から植民地解放ではない。そして、日常生活の破綻。お国のため、欲しがりません、勝つまではと言いながら、結局、勝てなかったし、家は空襲でやかれ、家族を失い、日常は完璧に破壊された。戦争に駆り出された理屈の根拠は愛国心。しかし、大陸に野望を持たなければ、こういう事態にはならなかった。

 

 そして「やられた」を国民が身近に感じさせ、戦争に対する意識を高めさせるのはメディア。

 

 そういう見地から行くと、現在進行形のウクライナにしても、実力行使を始めたロシアもロシアだが、ロシアに行動を起こさせたのは何か?も、検証は必要。 結局のところ、勝っても負けても日常と命を落とす庶民がババを引くことになるのだから。

 

  野坂昭如がその著書の中で、憲法9条改正は反対だが、自分がお茶漬けを食べる権利を奪われるのなら自分は銃を取ると書いていたが、私も同じ考えだ。