悠々談談

日々思うことを、つらづらと

国葬を中止に追い込んでも社会は変わらない

 太平洋戦争が終わり、東京裁判で戦犯が裁かれた。その時、被告含めてさまざまな当時戦争を指揮していた人間が言ってたのは、自分ではその動きを止めることができなかったという無力感漂う証言だった。それが、戦犯の口からあふれてくる。

 連合国は、東條英機ヒトラーに準え、彼を捕らえたが、とてもヒトラーのようなメンタリティもなく、理念もなく拍子抜けしたという。

 なぜ、東京裁判を持ち出したかというと、この国はリーダーがいて、政治を、社会を引っ張る社会になってないのではないか、その例示になるのではないかと思ったのである。

 安倍政権時、たとえばNHKに安倍お気に入りの籾井という名前の会長がいた。彼が、NHKを好き勝手にいじりまくってけしからん、官邸の言うがままに動くとか批判されたが、彼がいなくなってNHKはあるべき姿になったか?ヒールという悪役が見えなくなった分、NHKというメディアがますます得体の知れないメディアになってしまった。

 政治そのものもそう。安倍やめろと、安保法制のときとか、盛んに言われたが、彼が辞め、政治は変わったか?菅、そしてサラリーマンのような風体の二世議員が首相。それで政治はかわったか?

 安倍が銃殺されて、膿が溢れ出している。そして、その膿の後始末ができてない。その膿の後始末こそが供養になると思うのに。

 

 結局のところ、この国を動かしているのは何か、可視化できてないから、次々と訳のわからないことが起きる。おそらく、理性的に考えれば、こんなことやっちゃダメだよなと思いながら、それを役人、政治家にさせている何か。

 

 その何かを潰さない限り、日本の社会は浮かばれないままズルズルと堕ちていく、そんな気がしてならない。