悠々談談

日々思うことを、つらづらと

リベラル的なもは卒業!

 誤解しないでいただきたいのは、リベラルやめてネトウヨ転向したというのではないです。

 

 サンデーモーニング週刊金曜日、あとリベラル的な評論家の発信。みんな読まなくなったし、見ることもなくなった。なぜなら、確かに接していると、うんうんと頷くような話をしてくれるし、心地よい気持ちになる。しかし、それで終わりだ。Xにもさまざまなものが流れてくるが、あっ、そうだったんだと思うこともあるけど、その根拠としてのエビデンスが希薄だったりして、安易にリポストもできない。 リベラルな意見を聞いても、そこから先に進む余地が見当たらないのだ。リベラルのベクトルがポキンと折れている感じなのだ。

 

 たとえば、安保法制の時は「安倍やめろ」の声が渦巻いた。でも辞めたのは真偽はともかく体調不良だった。岸田も辞めろの声は高まってはいるが、辞めるとしても民意よりも自民党内のこれじゃ次の選挙戦えないという内部的要因になるだろう。それにもっともらしいオモテの理由をつけて。いずれにしても、民意を受けて辞めること、辞めることにならない。仮に辞めても、それよりさらに事態は悪くなる。安倍→岸田がまさにそうだし、政治的なものの例で言えばNHK会長だった籾井が良い例だ。NHKは逆に彼が辞めて、闇がさらに深くなった感がある。社会学者の宮台真司は、安倍政権を支持する。とことん堕ちてしまえば後は、這い上がるだけだから、しがらみがなく新しい社会、政治を作ることができると言っていた。私もそれに近い考え。

 今、社会がなぜによくならないか?それは構成員たる国民が、政治参加を自分のこととして認識できていないことに起因しているのではないかと思う。あの太平洋戦争でさえ、本当の意味での民主主義を日本に根付かせることはできなかった。心底、鬼畜米英を考えていたわけではなく、周りの空気に流されて鬼畜米英していた。そして、隣組といって相互監視の体制を作り上げ、その空気を維持した。しかし、敗戦と同時に空気はどこかへ飛んでいった。かわりに現れたのが日本国憲法。いまもって、もっともリベラルな憲法であると断言して良い日本国憲法。押し付け論もあるけど、内容は最高かつ崇高な憲法である。ただ、不幸だったのは冷戦になってしまったこと。警察予備隊自衛隊の流れができ、米国の冷戦下のシステムに組み込まれる。自民党は米軍の指導に的確に対応できるように憲法を変えようとしたり、日米安保自衛隊違憲訴訟については争点をずらしたり、判断を避けたりして憲法の番人たる資格を放棄。まだ、実現されているとは言い難い日本国憲法を守ろうとするのがリベラル。対抗する勢力が保守。多くの場合、自民党であった。しかし、冷戦が終結し、ソ連がなくなると今度は自民の政策に反対するのがリベラル。リベラルの政策に反対するのが保守という対立軸に変化してきた。保守サイドからは、日本国憲法固執する政党は保守。それを変えようとするのが改革派なんていう論法まで出る始末だ。ましてその保守の背後には米国の存在がある。両者が論争しても噛み合わないのだ。議論も上っ面だけのものになりかねない。

 

 もちろん、とことんまで堕ちる事なく、混迷から抜け出せるならそれはそれで良い。しかし、日本人はなかなか動かない、変化を好まない。今、世界は大きく変わり、価値観も多極化してきている。その中で日本は昭和の価値観のまま。行く末の議論も成り立たない。ならば、社会が変わらないなら、自分の頭で考えて、過去の因習にとらわれず仕事や、生活の局面で判断を加えていく。それで、リベラル含めて政治的知見に触れるのをやめ、自分の頭で考えて投票行動するしかないのではないかと思ったわけです。