悠々談談

日々思うことを、つらづらと

いびつな円安と株高

株高で4万円に届こうとしている一方で、円安は加速して150円台。

普通、経済が好調ならば株が上がり、円高が進む。海外でモノが売れればドルが手元に残り円決済のためにドルを売るから円高になる。業績いいから株も上がる。

 

しかし、そうなっていない。昨日のニュースでGDPの順位がドイツに抜かれて4位になったとあったが、株価がこれだけ上がってるのになぜ順位が下がるのか?

外国人の日本株の買いが多くなっているのなら、円高になってもいいのになっていない。

 

これは見方を変えれば本来ならば1ドル300円、400円になるところに、世界の巨額マネーが東京市場に注目しているから円安にブレーキがかかっていると見ることもできるのかもしれない。それでも150円だ。自分が社会人なりたての頃は70円台という円高の頃もあったから、円の価値は半分になったということになる。

 

ちっとも良くならない経済の体感、進む円安。なのに株高。バブルが崩壊した時のように世界の巨額マネーが日本から手を引いたら、円安、株安ということになりかねない。新NISAはそんな株式市場を、まるで太平洋戦争の時米国のB29を竹槍でやっつけようとしたみたく、株式市場を国民の虎の子を使って支えるというとんでもない愚策にも思えてくる。そして懸命な人は米国株に走り益々円安が進む。

 

まるで昭和20年7月のような、経済敗戦確定の心持ちではないか。

 

 

英語

 生まれ育った広島県呉市広島市含めてミュージシャン、音楽関係者が多く育っている。坂田明小林克也矢沢永吉浜田省吾西城秀樹などが記憶に明らかなんだけど、多くのミュージシャンが出てきたのは、岩国の米軍基地の影響が大きいのかもしれない。基地そのものではなく、岩国基地から放送されてたFEN(現在はAFN)が聞けた影響もあるような気がする。私もよく聞いていて、土曜日午後、伝説のディスクジョッキー ウルフマンジャックのアメリカントップ40はわからないなりに、‘土曜日午後のお楽しみにしていた。

 そんな街に育った私だが、音楽には疎かった。音楽の方向には行かなかった。そのかわり、FENをかけっぱなしにしていてニュースとかなんのニュースだろうと聞き耳をたてていた。そして、さらに発展。当時流行していたBCLという趣味にハマった。海外放送を聞いて、受信報告を送り、その地のベリカードという受信確認記念の絵葉書といろんなグッズを送ってきた。受信報告と言っても最初は男性の声、女性の声とかしか書かなかったが、聞いているうちにニュースであることがわかったり、具体的なことがわかるようになった。

 中学校の頃から、こんな趣味を持っていたから、英語の授業は面白くなかったが、英語そのものは好きだった。呉という街は田舎の街だったが、駅に行くとJapanTimesやそのほかの英字新聞もあった。その中に、アジア圏の英語放送のスケジュールが書いてあったりして、それに合わせてラジオのダイヤルを合わせたものだ。

 私は学校教科としての英語は嫌いではなかったが、好きではなかった。そのせいで、大学受験も1浪したが、ただ、英語の基礎力はその時形作られたように思う。語彙などはその時の習得がいまだに残っている。そして映画も好きだったが、経理会計の世界に入り、偶然にも外資系の扉を開けてしまった。それからはOJTで英語を磨いていった。英語を話すことで違う価値観の人と触れ合うことができ、自分の価値観、世界観に影響を与えていったのは確かだと思う。

 

 ちなみに最近はアプリで昔のFENにあたるAFNスマホで聞いている。

 

不器用な生き方

 自分は不器用な生き方をしてきた。みんながやっていること、それに倣うことができなかったのだ。特に学校というところは、集団で何かをやらされる。その行為が好き、嫌い関係なく。着いていけないとポジティブな評価がもらえない。当然、器用なら無理してついていけたかもしれない。しかし、それが自分には難儀だった。その究極が体育で、自分は苦手だった。人の流れに沿って歩くことができないから、いろんな競技で自分のチームが負けてしまう。でも、高校を出た段階でそれは諦めた。合わせようとすると逆に苦労する。自分を通すことのほうが楽。

 そんなことを思ったのは、「バブル文化論 原宏之著 慶應義塾大学出版会」を読んだからだ。

だ。

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   なんて言うんだろう、自分は大学に78年に入学し、84年に卒業した。80年代のバブルという空気は察知はしていたが、その頃の「遊び」には興味関心が元々なく、むしろ、バブルの頃は表舞台に出ていなかった膿が滲み出てきた末期から崩壊後に、自分の不器用さが苦じゃなくなった気がする。そしてその頃のドラマが「ふぞろいの林檎」。正直言って、東京の大学は今もそうだし、一昨年の映画であった「あの子は貴族」。東京の高校、あるいは附属、系列校から上がってきた学生は横のネットワークがしっかりとできていて、地方出身者は最初から大学生活で遅れをとる。東京での生活もそうだ。渋谷、新宿が我が庭のように歩ける。そして就職も高校時代からの先輩の縦の流れもあるから上手く事を運べる。

 もちろん、器用であれば地方であってもなんとか、うまくやって行けるんだろうと思う。しかし、自分は根っからの不器用だから、そんなことはできない。だから、ぴあを買って、時に日刊アルバイトニュースを買ってアルバイトしながら、都内の名画座巡りをした。

 

 だからこの本に出るようなこと、80年代文化は縁がなかった。ディスコも行ってない、一度だけロックコンサートに誘われて行ったが、席を立って踊るということができず、それ以降は行かなかった。

 やりたいことだけをやればいい、そう思った。就職は映画会社。もはや斜陽の代名詞のような業界だったが、その時専務が私のシベリア鉄道の旅の話がいたく気に入って採用になった。新聞社を受けた時も、このシベリア鉄道の話、正確にいうと北京発モスクワ行きの国際列車に乗った話なのだが、後で聞いた話、こいつは「アカ」と認定されたらしく、不採用。地方紙であったが、その風評で他の新聞社も面接まで行ったけど落ちた。落ちた当初は落胆したが、自分はそもそもそういう既存の価値観にとらわれない性格だし、無理に器用に会社の求める方向に自身のベクトルを合わさなくてもここまで生きて来れた。

 

 今、昭和、平成と続いてきた価値観が転換を求められている。

 

 そういう意味で、自分は身の丈を社会が、会社が求める方向に無理に合わすことなくきたことが、じっと自分の立ち位置を変えないでいたことが、とりあえず、自分の残りの人生に不安を持たずにいられるところにつながっているような気がする。

トランプ大統領再選を支持する

 トランプには、アメリカファーストに対する批判が多い。しかし、歴代大統領はみんなアメリカファーストだ。NATOや、アジアだと日本、韓国と条約を結び、米国の利益のためにいつでも動けるように、米軍が駐留し続けている。日本は、最高裁自衛隊にまつわる判決前に大使が最高裁長官のところまで行って判決に釘を刺しているのに、日本はなんら非難、抗議しないこともあった。

 

 トランプはお金の面から、海外に基地を維持し続けるのは負担が大きくやめようととしていた。世界の警察を止めるとも。

 

 これは喜ばしいことではないか。最近書いたブログのなかで、集団的自衛権は百害あって一利なしと書いた。結局、アメリカが戦争始めたら、同盟を結んでいたら、いかざるを得なくなる。しかし、それがなければ、一対一の戦争に過ぎないことになる。第三次世界大戦も起きない。

 

 要は、戦争のタネを撒き続けてきたアメリカが、それを撒くのをやめれば、その国、その民族に合った政治を行うことができるようになる。

 

 アメリカの民主主義が、大正解ではもはやないのは明らかなのだ。アメリカがアジアから手を引けば、国同士の小競り合いはあるかもしれないが、世界大戦にはならない。

 

 そういう意味で、アメリカファーストで、前の任期で海外駐留米軍の撤退を言っていたトランプが当選すれば良い。

 

 そうすれば、日本の政治家、外交官も自分の頭で外交をしなくてはいけなくなるからね。

日本人を演じる

 あっという間に1月も半月が過ぎてしまった。コンビニには、恵方巻のポスターが貼られている。バレンタインチョコも商品も並びだしている。

 そして、お花見、と行事は続く。どこか、業者の敷いたレールに沿って日本人は動く。

 家では、良き妻、良き夫、良き子供を演ずる。それを、さあ、演じよとメディアは煽る。

 

 日本人、疲れてきてないか?

 

急かされるように、定型行事をこなしていくだけ。本来の人間らしさの存在した毎日が見えなくなってないか?

 

朧げになんとなくそんなことを考えた。

  

映画「ファーストカウ」を見て考えたこと

  最近の映画を見ていると、強いアメリカはアメコミで、そうでない恥部であるとか、触れてほしくないアメリカもそこそこ作られているような気がする。最近ではカラーズオブザフラワームーンなんかそう。そしてこの作品。

 このファーストカウは、その意味で、西部開拓時代、粗野で乱暴な時代を描いてる。基本は自分の命、財産は自分で守る。国はあてにならないという発想。そして、世界から富と名誉を求めてやってくるあらくれ。これも同じだろう。

 

だから、銃規制に行かないんだろうな、と思うところはある。

 

 そして、その時代にであった2人の青年。その友情。そして、この友情がテーマということは、終わりのところで、驚くべき方法でそれを教えてくれる。 キラーズオブフラワームーンでデカプリオの奥さん役を演じたリリー・グラッドストーン、同じくデカプリオの兄弟を演じたスコット・シェパードが出ているなど、そういった点においても興味が尽きない。

 

映画「窓ぎわのトットちゃん」を見て思ったこと

 久々に映画を見て泣きました。以下ネタバレありです。

 

 トットちゃんの家は裕福だったと思う。黒柳徹子のパンダ好きは有名だが、映画の中でパンダのぬいぐるみが出てくるのは、叔父さんが米国で買ったお土産で

それを機にパンダ好きになったことを知ったし、朝はコーヒーを豆を挽いて飲んだり。

 

 とにかく、とても昭和のこれから戦争という生活ではないのだ。

 

 それが.....

 

 特に終わり近くになると色々と変化を見せてくれる。

 

 ・電車の改札にいたおじさんが女性に変わっていた(男性はみんな戦場へ)

 ・ペットで飼っていた犬の首輪だけが映し出される(ペットも供出されて食肉に)

 ・家にお母さんしかいない(お父さんは戦争へ)

 ・お弁当がなくなり、豆粒だけになる(配給で満足にお米が手に入らない)

 ・ファッショナブルだったお母さんがモンペを着ている

 ・防毒マスクをつけた子供が遊んでいる

 ・そして、青森への疎開

 

 ガザを見てても思うのだけれど、子供は社会がどんなに大変でも子供社会をしっかり持ち続けていて、それを楽しんでいる。とっとちゃんも小児麻痺の友達の死が、悲しくて仕方なかった。でも、戦争は子供の毎日もないものにしてしまう。そして、トモエ学園も空襲で焼けてしまう。でも、自分の世界をしっかり持っていて、見る側はそのトットちゃんの世界と、背後にある戦争という社会の持つ課題も感じる。

 

 戦争中の庶民を描いた映画といえば片渕須直監督の同じくアニメの「この世界の片隅で」がある。絵のタッチは同じよな印象を持った。窓ぎわのトットちゃんも戦争を描くのは、街の雰囲気が変わってきたこと、そしてB25の爆弾投下シーンだけ。ただ、子供もそんな中でも元気に生きて、遊びを見つけて毎日を送っている。‘この二つのアニメは共通するものが多いと感じた。ただ、戦争による「死」は描かれていない。

 

 子供と見ることあれば、戦争は直接は描かれてないけど、背景にある「戦争」の話をするべきではないかな、と思った。

 

 なぜ泣いたか?友達が亡くなって泣きながら街を走り抜けるトットちゃん。彼女が走り抜ける街の至る所で戦争をイメージするものが溢れている。それでも懸命に走り抜けていく姿に

ちょっと目頭が熱くなった。