悠々談談

日々思うことを、つらづらと

不器用な生き方

 自分は不器用な生き方をしてきた。みんながやっていること、それに倣うことができなかったのだ。特に学校というところは、集団で何かをやらされる。その行為が好き、嫌い関係なく。着いていけないとポジティブな評価がもらえない。当然、器用なら無理してついていけたかもしれない。しかし、それが自分には難儀だった。その究極が体育で、自分は苦手だった。人の流れに沿って歩くことができないから、いろんな競技で自分のチームが負けてしまう。でも、高校を出た段階でそれは諦めた。合わせようとすると逆に苦労する。自分を通すことのほうが楽。

 そんなことを思ったのは、「バブル文化論 原宏之著 慶應義塾大学出版会」を読んだからだ。

だ。

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   なんて言うんだろう、自分は大学に78年に入学し、84年に卒業した。80年代のバブルという空気は察知はしていたが、その頃の「遊び」には興味関心が元々なく、むしろ、バブルの頃は表舞台に出ていなかった膿が滲み出てきた末期から崩壊後に、自分の不器用さが苦じゃなくなった気がする。そしてその頃のドラマが「ふぞろいの林檎」。正直言って、東京の大学は今もそうだし、一昨年の映画であった「あの子は貴族」。東京の高校、あるいは附属、系列校から上がってきた学生は横のネットワークがしっかりとできていて、地方出身者は最初から大学生活で遅れをとる。東京での生活もそうだ。渋谷、新宿が我が庭のように歩ける。そして就職も高校時代からの先輩の縦の流れもあるから上手く事を運べる。

 もちろん、器用であれば地方であってもなんとか、うまくやって行けるんだろうと思う。しかし、自分は根っからの不器用だから、そんなことはできない。だから、ぴあを買って、時に日刊アルバイトニュースを買ってアルバイトしながら、都内の名画座巡りをした。

 

 だからこの本に出るようなこと、80年代文化は縁がなかった。ディスコも行ってない、一度だけロックコンサートに誘われて行ったが、席を立って踊るということができず、それ以降は行かなかった。

 やりたいことだけをやればいい、そう思った。就職は映画会社。もはや斜陽の代名詞のような業界だったが、その時専務が私のシベリア鉄道の旅の話がいたく気に入って採用になった。新聞社を受けた時も、このシベリア鉄道の話、正確にいうと北京発モスクワ行きの国際列車に乗った話なのだが、後で聞いた話、こいつは「アカ」と認定されたらしく、不採用。地方紙であったが、その風評で他の新聞社も面接まで行ったけど落ちた。落ちた当初は落胆したが、自分はそもそもそういう既存の価値観にとらわれない性格だし、無理に器用に会社の求める方向に自身のベクトルを合わさなくてもここまで生きて来れた。

 

 今、昭和、平成と続いてきた価値観が転換を求められている。

 

 そういう意味で、自分は身の丈を社会が、会社が求める方向に無理に合わすことなくきたことが、じっと自分の立ち位置を変えないでいたことが、とりあえず、自分の残りの人生に不安を持たずにいられるところにつながっているような気がする。