悠々談談

日々思うことを、つらづらと

長男型社会日本の行末

 子供の頃は母親、学校では先生の顔色をうかがい、親や先生がどうすれば喜ぶかを考えて行動する。それが長男の特性だと心理学者の著述を読んだことがある。

 

 だから、親や先生の嫌うことはしない。つまり、親や先生の価値観から超越しないわけだ。同級生にやたら数学に長けたのがいたけど、他の科目はさっぱり。その同級生は、変人扱いされていた。そういう、ある意味とんがった子供に長男はなりにくい。

 

 常に親にとって、先生にとっていい子を目指すからだ。安倍政権末期の忖度という言葉は長男型社会を見事に反映している。

 

 でもなあ、ほんとは、今の日本こそ、とんがった人が必要なのに、長男型社会にそういう人は落伍者扱いされてしまうんだよなあ。この日本に必要なのは、これまでの社会の仕組みをガラガラポンして新しい日本社会を作れる人。

 

 もっとも、彼らを導いていけるメンターがいれば、いまの混沌とした社会の仕組みをかえていけるように思うんだけどね。

 

 

集団的自衛権の概念は百害あって一利なし

 集団的自衛権は、百害あって一利なしである。

 第一次大戦、第二次大戦も集団的自衛権があったあゆえに戦火が広がった。大国を巻き込んだ戦争になった。集団的自衛権がなければ、国対国の戦争で終わっていた。それを大国が

戦争の原因についての仲裁をすれば良かっただけ。それでも集団的自衛権の考えが正論になっているのは、戦争をした方が大国にとって利益が大きいということに他ならないのではないか?

 台湾問題だって、集団的自衛権の視点を外せば、中国大陸メインランドから台湾に逃げた国民党の中華民国政府だが、国際法上は一つの中国である。選挙が行なわあれ、統治主体があり、国民がいる。確かに国家の形を作っているが、この台湾が独立すると言い出せば、それは中国の内政問題である。米国が横槍を入れて結果、米軍基地に攻撃を仕掛けてきても、自衛隊が加勢する必要はない。中国が国内問題として対応すればいいだけ。そもそも米国が加勢する大義名分はない。米国自身、一つの中国を確認して国交回復しているからだ。

 

 結局のところ、集団的自衛権は大国が、自らの権益拡大に利用し、徒党を組まされているその他の国はその権益拡大のおこぼれを貰うことがその本性ではないか?そして米国を中心とした集団的自衛権の構造が崩壊しつつあることが、今のヨーロッパのウクライナ離れに拍車をかけているような気がする。それから行くと中国と米国の時代というのではなく、多極化の時代に突入したと言えるのかもしれない。そういう時代に、今の自民党の政治家では対応は難しい、と思う。

地震とJAL機事故

 2日続けてで思い出すのが、ホテルニュージャパンの火災(1982.2.8)、日航機350便墜落事故(1982.2.9)のやはり2日続けての事故だったことだ。

 まだ大学生で、赤坂まで火事の現場を見に行き、日比谷高校の坂まで行って写真を撮って、皮膚感覚で熱を感じたのを覚えている。

 そして、翌日は日本航空機事故。

 

 今年、航空機事故はしばらくなかっただけに、ショックだったし、地震はわれわれの日常が薄い氷の上にのっかってることを認識させてくれる。それにしても、2日にして、2024年十大ニュースのうちの二つが2日にして埋まってしまっている。

 

 これ以上のニュースのないことを祈りたくなる、お正月三が日。

映画「ウイッシュ」を鑑賞、そして考えたこと。

 今の日本。YouTubeを見ていると、とかく地方の県立高校は地元の県立高校合格を最優先、できる高校生は東大もしくは医学部という空気という話があるという話を聞いたことがあるが、それは自分が受験生だった頃と変わらない。身近にも医学部に入ったが、英米文学をやりたく再受験して文学部に入りなおした親友もいた。要は高校の実績づくりが最優先で、本人のWishはないものとされてしまう。そして、それは受験に限らず、あらゆる分野に及んでいるのではないか?そして、自分が本当に何をしたいか、わからなくなって、就職まで行ってしまう。

 この映画は、いろんなWishを持った人が、魔術を持った王様のもとに自分のWishを預けて、いつの日かそれが実現することを願いながら、この島に、国に集う。しかし、希望は叶わない。王様であるマグニフィコ王が認めるWishでないと叶わないからだ。王様に自分のWishは渡してしまうと自分が何をしたいかわからない。主人公のアーシャの祖父は100歳。しかし、彼も王様から願いをなかなか叶えてもらえない。みんなそれぞれの希望がいつかなうかわからない。悶々とした日々なんだよなあ。おまけに悪い魔法までマグニフィコ王は会得してしまう。

 

 希望がないと絶望的な気持ちになるが、主人公のアーシャが中心となって手に手を繋いで王様をやっつけてしまう。そしてWishはそれぞれの心の中に。住民に笑顔が溢れる。

 

 率直な感想。ディズニーから最も遠いところにある革命を描いているところにびっくり。王様を権力の座から引き摺り下ろし、王妃を女王様にしてしまうのだから。そして王様のいい魔法に頼らなくてもWishのために頑張る意志の表明。これまでディズニーアニメはヒロインの窮地を救ったのが魔法と、かっこいい王子様。そして恋愛。それらは、このWishの中には登場しない。

 

 この映画は、レビューサイト見ても評価は今ひとつだし、米国でもヒットとは程遠いようだ。実際問題、12月31日1200の東京丸の内ピカデリードルビーシネマもさっぱり。これまでのディズニーを求めた人には物足りない作品だったかもしれないけど、これまで書いたようにこの作品はディズニーが新しいフェーズに入ったと思える作品で、私は十二分に楽しめた作品だった。

 

 日本人それぞれが、いろんなしがらみに負けないで、自分のWishを見つけて欲しいというのが見終わって一番感じたこと。

 

 今は12月31日2130。

 配信含めて見た映画は 81本(複数回鑑賞は除く)(映画館はうち64本)

 ジャンルは ドラマ21本 アクション19本 アニメ11本 コメディ7本 クライム7本 ホラー6本

 よく行った映画館 TOHOシネマズ日比谷 13本 新宿バルト9 10本 TOHOシネマズ日本橋8本

 配信 Netflix 6本 Prime3本 AppleTV3本 

 試写会一回

 

我ながらよく見たものだ。以前だったらTOHOシネマズ新宿だったろうけど、東横キッズのおかげで足は日比谷に向かうようになった。お気にいりは、ドルビーシネマの

新宿バルト9丸の内ピカデリードルビーシネマ。

 

2024年は早速、オッペンハイマーが楽しみだけど、VFX駆使したSFモノはもう食傷気味かな。でもまた、どんな映画に出会えるか楽しみだ。

 

 

 

 

呆れてものが言えぬ

 与党のパーティ券還流問題が大噴火のいま、憲法改正だと?!バカも休み休み言えと言いたくなる。

 そもそも憲法改正は、与党が言い出すレベルの話ではないし、日本国憲法の言うところの改正は、政府が好き勝手するのをさせなくするための改正である。時代に合わなくなったと言う論を聞くけれど、日本国憲法は崇高な理想が掲げられており、それらが達成されていれば、今のような格差とか少子高齢化といった問題はうまれなかったはずである。それを、作り出してしまったのが、自民党である。憲法を蔑ろにして、美しい日本になる機会をなくしてしまったのが今の自民党政権である。

 その自民党憲法改正を言い出す。馬鹿も休み休み言えといいたい。何日か前にも書いたけど、政治的理念のかけらもないのだから、憲法改正して好き放題やり、それでも、社会がすさんできたら、こんどは別のターゲットをつくり、それが悪いと言い出すのは目に見えている。

 

 自民党にもかつては、誇れる政治家もいたが、いまはもういない。清和会も、福田赳夫が草葉の陰で泣いているとしか思えない現状。

 

 自民党に自浄作用ないなら、早々に解党するか、心ある政治家は他党の心ある政治家と新党を立ち上がるくらいのことができなければ、日本は本当に終わってしまう。

 

 

 

日本の自動車産業は大丈夫か?

   小学校の時、ロータリーエンジンで知られたマツダ、当時の東洋工業に社会科見学に行った。関東に出てきてからは、かつて住んでいた藤沢にはいすゞのトラック工場があった。工場は24時間操業で、最寄駅の長後には朝からお酒も飲める赤提灯の飲食店があって、朝から飲んでいる人がいたのを思い出す。また、ゴーン時代の日産自動車で3年ほど契約社員で働いた。EV部門の管理の仕事で、まだまだテスラもこれからの頃だったが、日産のリーフが世界でけっこう売れていた。EVについては、日産が技術的にバッテリーでアドバンテージあったのは確かだった。率直なところ、テスラとリーフの時代が来るのかなとも思った。EVバッテリーで一番の問題は火を噴くリスクで、日産は一度もそういう事故がないと聞いた。その技術料がコストに反映するからEVは高くなる。そのあとゴーン事件があったが、ゴーンがいなくなってビジネスが、さらに伸びたという話は気かなかない。あのゴーン事件は一体何だったんだろう。

 

 その自動車業界は、トヨタ天下の日々が続いてきたが、ここにきて風向きが変わってきている。EV化のファンファーレを高らかに打ち上げたが、本気度は薄く、水素とかEV以外の開発に力を注ぎ、メディアでは、トヨタ応援団としか思えないEVダメダメ論が溢れている。そして今、子会社のダイハツの全車種が不正問題で全車種出荷停止。そして米国でレクサスなど100万台がリコール。自動車産業が日本の屋台骨を支えているのは確かだが、その屋台骨が揺らいだらどうなるか?

 

 EVについていえば、音楽デバイスを想起すればわかりやすいかもしれない。昔は音質が良ければそれは売れると信じ込まれていた。アナログレコードからデジタルになって、コンサートホールで指揮者が楽譜をめくる音が聞こえる!音質が注目された。しかし、消費者が求めるのはそれではなかった。スマホで、それもワイヤレスで聴く音楽はお世辞にも音質がいいとは言えないが、その音楽をサブスクで聴くのが主流となってしまった。それの背後に何があるかというと、音の質を求める流れではなく、音楽も含め生活の中で楽しむための環境、スマホでいうOSが鍵になって来たということだ。自動車も同様。‘クルマ屋がかっこいいクルマを作る時代ではなく、自動車をスマホ本体に例えれば、これからの時代は自動車のOSをどうするかの時代になってきたということだ。ところが、自動車産業はあくまでクルマ屋的発想から抜け出せない。OS視点からいけば、EVは必然だろうし、EVを通して、スマホについてスティーブ・ジョブズが語った言葉を借用するなら「自動車を再定義」しなくてはならないのに、日本の自動車会社は昔の定義で走り続けている。動力はEVとしてOSをどうするかの発想が欠落している。日本の自動車業界をめぐる様々な事件は、再定義ができかねているそのツケという側面もあるんじゃないだろうか?

 

 これからこれまでハンドルを握っていた団塊世代後期高齢者になっていくことで、自動車に乗らなくなる。東京圏はもはや自動車は全世代的に日常的に必要なツールとして人々はとらえていない。そして地方は高齢化が進み、乗らなくなる。となってくると、これまでのようなマイカーという概念は持ちづらくなる。地方であれば、無人のバスが定期運行し、東京など都会圏ではシェア自動車が増えてくるようになるのではないか?人口減を考えれば、これまでと同じ台数が売れるとは考えられない。まして、不祥事が頻発すれば、海外での売れ行きにも影響するだろう。

 

 タイトルで、「日本の自動車産業は大丈夫か」と書いたけれど、甚だ心許ない。