悠々談談

日々思うことを、つらづらと

本当に昭和40年代は輝ける年だったのか

 人間の記憶は失せていくものだが、苦労とかイヤな記憶は比較的早く記憶から失せていく。嫌な記憶が数十年もあり続けていたら、人間やってられないのも。

 

 昭和40年代は高度成長期で、自分にとってはその多くが小学校時代と重なる。広島の呉ではあるが、三丁目の夕日と時代はかぶるところもあるかもしれない。

 

つらづらと記憶を頼りに書いてみると

1 道路は舗装されていないところも多く、自動車に乗ると凸凹道が結構あり、乗り物酔いにかかりやすい自分はよく車酔いした

2 1度水害を経験したが、まだ上下水道が完備されておらず、汲み取り式の便所が大半で、市役所は事後、消毒作業匂われていた

3 蒸気機関車だったため、トンネルに入ると窓を閉めないと煤が車内に立ち込めてとても汚かった

4 国民所得がまだまだで、クリスマスケーキもバターケーキが主流だった

5 造船不況が押し寄せると街に失業者が溢れ、市内には所々に手配師が来て仕事を求める人を集めて行った

6 海上自衛隊呉総監部、呉基地があったせいで街に水兵さんが溢れ、軍港の歴史を引きずっているようだった

7 そのせいか人口20万の年だったが、三和、住友と都市銀行が二つもあった

8 今はもう撤退した。都市銀行はもうない

9 牛肉は、お祝い事のある時くらいしか食べることはなかった

10呉市にはいくつか米軍の弾薬庫があり、その弾薬庫と国道を結ぶ道路の建設に反対する運動があった

11テレビは民放は2局だけで(TBS系とNTV系)、それ以外のフジ、テレ朝系(当時はNET)、そしてテレ東系は昼間とか土日に放送していた

12全国紙は大阪から来たため、スポーツニュースは一昨日の野球の結果が載っていた そして夕刊はなかった

13南海ホークスがキャンプをはり、監督の鶴岡一人がキャンプの頃には小学校の朝礼に挨拶にきた

14山際の道路脇には防空壕がまだった。物置きかごみために使われていた

15急行安芸と言う寝台急行があり広島を15時ごろ出て東京に翌朝7時ごろ着いた。これがのちの特急あさかぜにつながる

16米軍岩国基地が直線距離が近いためFENがガンガン入った

17土曜日午後もAmericanTop40はウルフマンジャックのDJで印象に残っている

18そのFENのおかげと勝手に思ってるが、音楽関係の著名人狭い街だが結構いる

19 坂田明浜田省吾...あっ、これだけか

20 呉空襲で焼けただれた旧市役所がしばらく残っていた

21商店街も、全国チェーンもあったが地元のお店も繁盛していた

22 すずさんの呉も焼け残った山際にはけっこう残っていた

23映画館も確か3館ほどあった

24映画の途中でも呼び出しが生声でかかったりした

25そして禁煙ではなかった

26幼稚園の頃の記憶「ナントカチャンのお店の前で暴力団の撃ち合いがあったって」と大人が話してるのを聞いた記憶がある

27 うちの近くにも暴力団の詰所があった

28 呉は仁義なき戦いの舞台の地

29 チンチン電車も走っていた

30 バスも呉市営で頑張っていたが今では広電に売却された

31 国鉄呉駅にはなぜかジャパンタイムズを売っていた

32弁当を持って広島駅に行き電車をカメラで撮り鉄していたが、特急電車を撮りまくったが、今では山陽線東海道線もローカル線だから。

33ジェンダー意識は、親世代も自分世代も低かった

34小学校の連絡簿 電話が呼出というのがけっこうあった

35本家は福山だったが、自転車が多い街だった。日本鋼管の工場ができて街に活気があった

36呉線は煤で汚れた車両だった

37急行安芸は、東京に出張するお偉方が乗ってるからと呉駅出てすぐの踏切の係りの叔父さんが言ってた

38町の至る所で上映中の映画ポスターが貼られていたが、そこのおばさんからよく映画の券をもらった

39シネコンでないから、一日ずっと同じ作品をみることができた

40広島原爆ドームの近くには民家があった

41原爆乙女というケロイドを見せる女性がドーム近くにいた

42広島市民球場で広島巨人戦を初めて見たときは感動した

43呉駅は戦後復興第1号の駅舎と聞いた

44呉市の中心部には文正堂 中国堂(?) もう一軒あったが記憶から消えたし、Google先生も知らないらしい

45国立呉病院はすずさんの義父が入院していた病院だが昔は24時間介護じゃなかったから付き添いが必要だった

46そんな呉でも新宿中村屋の営業店がなぜかあった

47広島だけど阪神ファンも多かった

48夜になると東京の放送がガンガン入ったが、韓国の放送も強く聞こえた

49月曜早朝に日本の民放がラジオ放送を終えるとインドの放送が聞こえた

50呉市役所の公民館で東京オリンピックの記録映画を見た

51テレビドラマ、映画の中でも男女問わずタバコを吸うシーンがあった

52 同様に女性の乳首がでるシーンもよくあった

53地方だと静止画面の広告がテレビではよく流れた

54カラー番組は隅にカラーという表記が出た

55米国のドラマがよく流れた

56奥様は魔女、かわいい魔女ジニー、コンバット、名犬ラッシー

57広島は土曜日の昼間は吉本新喜劇の時間だった

58公立図書館が数少ない冷房の効いた施設で夏休みは朝から夕方までいた

59その冷房は寒いほどだった

60 5年生の時はマツダ東洋工業)の工場見学に行った

61 年に何度か講堂に子供を集めて映画会があった

62  広島だから原爆映画が多かったが009の上映もあった

63 夏休みのラジオ体操は毎日あった

64 呉市の中心部には朝行くと焼きたての食パンを切って販売する店があった

65ゲバゲバ90分を見たくてアンテナを工夫して愛媛の放送を見たことがあった

66呉駅前にブランチという洋食屋があり、そこで初めてブランチの意味を知った

67映画のポスターはポルノ映画も堂々と貼られていた

68この頃の広島、正確には福山を描いた(ほんの10分くらいだが)映画がある。山田洋次の「家族」

69呉から広島に行くと広島の手前に操車場があり特急や寝台列車が並んでいた

70百貨店はなかった。らしきものは「呉百貨店」

 

 

 

気がつくと70項目。これをベースにガチガチ小説にまとめてみるかな。

いい印象の話はよく覚えてるが、嫌なことは得てして思い出せないものだ。だから、あの頃は良かったとは言えない。いまの当たり前が当たり前でなかった時代なのだから。あの頃のビジネスパースンがいまの時代を見たら、目をひん剥くのではないか?

 

かといって、私は今がベストとは思えない。常にすみ良い社会にすべきと思う。