悠々談談

日々思うことを、つらづらと

北京モスクワ国際列車、但し30年前

 第1章 北京出発

 

 北京駅。その風貌は、上野駅に似てなくもないが、重みはズシリとあり、それは建物から、というよりもそこへ集まる人々のはきだすエネルギーが、その源であるように思えた。駅前の広場には、おそらくこれから中国各地に向かう列車に乗り込むのであろうと思われる人たちがシートを地面に敷いて座っている。

 中国の列車は硬座、硬臥、軟座、軟臥の四種類があり、当時の中国だと改革開放も緒についたところで、軟座とか軟臥に席を取るのは外国人か、共産党の高級幹部か、それこそ一部の特権階級。一般の庶民は硬い椅子。日本のB寝台に似たベットでもあるが、多くの人は固い座席で何昼夜も過ごす。したがって、乗り込む前に、足を伸ばして仮眠をとっておこうというわけだ。むろん、寝ている人ばかりではない。ひまわりの種とかを、食べながら、ひたすらおしゃべりをしているものもいる。

 

 広場に座り込んでいる人々の合間をぬって、国際列車乗客用の待合室を通り抜けて、ホームまで行く。その風景はあまりに薄暗く、よくみえなかったが、何人かが座っていたような気配はあった。売店もあったが、店員はみえず、ショーケースには白い布切れがかけられ、開店休業状態であった。

 

 北京駅の一番ホームは、この1983年当時、国賓もしくは幹部クラスか、私が乗ろうとしている国際列車しか、利用されていなかった。国際列車は、満州里経由、モンゴル経由のモスクワ行きと平壌行きがあるだけで、ハノイ行きの国際列車も、中越紛争の経緯もあり、運休状態であった。そして、このモスクワ行き国際列車が外国人に開放されたのが、ちょうどこの年だった。ただし、全車両がモスクワにいくわけではなく、中ソ国境の町、満州里までの車両も連結され、週に一度だけ、一番線に入線する。それ以外は別のホーム。さらには途中、北朝鮮からは平壌発モスクワ行きも連結される。

 

 列車には、ロシア人の車掌がドアのステップのところで、出迎えてくれた。満州里経由の列車編成はロシア車両の運用。ちなみに、あともう一本、モンゴル経由のモスクワ行きは中国の車両がモスクワまで行く。このモンゴル経由のほうは、あさ早く北京駅を出発するが、北京駅をでて直後、車窓からみえる万里の長城は絶景らいしい。満州里経由は、長春、ハルピンといった、都市をとおって、中ソ国境をめざす。車中三泊で、まずは目的地のイルクーツクをめざすことになる。

 

 ロシア人車掌は、口ひげを、はやし、多少垂れ目で愛嬌あるキャラクターで、任天堂のゲームキャラであるスーパーマリオに似ていたような趣をかんじさせた。そんな彼がイルクーツクまで我々の面倒をみてくれる。お茶をたのめば、お茶を、そう、ロシアンテイーを入れてもってきてくれる。

 

 団体旅行ではなかったが、日本人客はひとつの車両、コンパートメントに集められていた。同じコンパートメントになったのは、イギリスに行くという、私と同年代の男性、Hさんだった。あと、大学生3人組、OLという組み合わせであった。

 

 コンパートメントは2段式で、ベットの上には白いシーツ、まくらが置いてある。窓のスクリーン式ブラインドは夜のために下げられていた。窓際のテーブルにはレースの敷物がかけてあり、その上に一輪挿しの花瓶がおいてあったが、なぜか、花は入っていなかった。

 

 車掌の詰め所の脇には、ロシアでは有名なサモワールが備え付けられていて、常に熱い熱湯がとれるようになっていた。

 

 気が付くと、列車はゆっくりと北京駅を離れだしていた。ブラインドをあげ、窓も少しだけあけてみる。ゴットン、ゴットンとゆっくり、17両にもおよぶ巨大編成の列車がゆっくりと、北京の空気をわずかにあいた窓から、コンパートメントに取り込みながら、進みはじめた。

 

9000キロの旅のはじまりであった。

 

 

 

 

 

 

 

 この列車の寝台は、向い合せで二段式。つまり4人が一室の個室になる。ドアに鍵がかけられるようにはなってはいるが、乗客には鍵は渡されない。車掌が持つだけだ。

 難儀だったのは、上段にのぼるための梯子がないこと。ドアの脇に足を引っかける出っ張りがあり、それに足をかけて上に飛び乗ることになる。

 

 転落防止柵がないのも不安だった。上段だと1メートル近い高さがある。寝ぼけて落ちると、これはただの怪我ではすまされない。むろん、日本の鉄道が狭軌といって狭い線路幅のため、おのずと車体もそれにあわせて小降りになっているが、この客車は、日本の新幹線で採用されている広軌のため、ゆったりとしたつくりになっていて、寝返りもじゅうぶんにうてる余裕はあった。

 

 朝。ごとごとレールを走る振動で目が覚めた。日本で購入していた中国の時刻表によれば、すでに潘陽は過ぎた時間だ。30分まえについていたことになる。でも、まだ着いてはいない。

 

 昨夜は、北京を発ち、つぎの停車駅天津で一度、ホームに降りた。売店もしまっており、人陰もまばらであった。中央政府直轄市であるが、当然といえば当然。町の雰囲気など伺い知れるところではなかった。列車にもどり、ほどなくして眠りについた。レールの上を走る、定間隔の振動が子守唄がわりになったのか、すぐに寝付くことができた。

 

しかし、停まったのでああれば、気づくはずだ。

 

 車窓からは、大きなトラックの荷台に、人をのせた車が、線路に並走するかたちで走っているのが見えた。おそらく工場へむかう人たちを運んでいるのだろう。砂ぼこりをまきあげながら、走っている。そんなトラックが何台か走り、そのトラックを取り囲むように自転車の一団がすすむ。

 

 潘陽がまだなら、ぜひ見てみたいところがあった。張作霖の爆殺事件の現場である。たしか、潘陽駅にはいる前か後かであったはず。記念碑もたっていると聞いていた。ぜひ、昭和の歴史の現場を通りすぎるなら、そして見ることができるなら、かいま見てみたいと思った。

 

しかし、農村風景が続き、気が付くとホームに列車は滑り込んだ。

 

 多少、お腹はすいていたが、降りてみる。向かい側には、ハルピン行きの列車がとまっている。窓からは、みんな対面にはいってきたロシアの車両を物珍しそうに眺めている。

 それはそうだろう。行き先表示には「北京、莫斯科(モスクワ)」と表記がある。国際列車は、週に1便だから、そんなに巡り合わせよく出会うこともないからだ。それに、ロシアの車両だ。いやが上にも目立つ。

 

 15分ほど停車して、列車は動き始めた。しばらく、窓ガラスに顔をくっつけるようにして見ていたが、あきらめた。

 

 車窓には、田園風景が続く。潘陽はむかし、奉天といわれ、日本人もたくさん移り住んでいた。おそらく、おなじ線路上から、おなじ風景を見ながら、まだ見ぬ開拓地に思いを馳せていた日本人も、また、多かっただろうと思う。それが、残留孤児という歴史をつくってしまった。

 

 動きだして、食堂車にでむいた。連結部扉は鋼鉄製。真冬はマイナス40度という極寒の地をゆくのだ。すきま風はゆるされるわけがない。連結部は、もっこりと鉄板が盛り上がったようになっていた。それを何両か越えて食堂車にたどりつく。

 

 食堂車は、中国国境までは中国の車両。窓際に紹興酒のボトルが置いてあり、その前にメニューが置いてあった。みると、値段がブランクになっている品がいくつかある。

どういうことなんだろうか?

 

 メニューを見ながら、服務員の女性に聞いていくが、価格がブランクはすべて、出せない料理、つまり、メニューにはのせているが、材料を積みあわせていない料理ということだった。

 

 しかたなく、普通におかゆを頼んで朝食をとる。車窓には東北の田園風景がつづく。しかし、メニューの3分の1以上に、価格が入っていなかった。これでは3日間、食事が思い遣られる。日に一度は、日本から持ち込んだカップラーメンを、サモワールのお湯をつかって部屋で食べるのもいいかと思う。

 

 それに、中国国内もそうだし、ロシアにはいってからも、停車駅ごとにホームに降りたが、そこで地元特産の果物とかも売っていたし、それを食事にかえることもできる。

 

 列車は、長春、ハルピンと東北地方の主要都市に停車していく。長春では停車時間が比較的長めであったことから、先頭車両まで歩いてみた。すると北京ではデイーゼル機関車であったものが、蒸気機関車に変わっていた。動輪の脇から、ホースのよう名ものが出ていて、強い蒸気がかなりの強さでふきだしていた。

 

 写真を構えると、機関士の男に制止された。中国、当時のソ連では、鉄道は軍事拠点で、カメラを構えると制止されることが多かった。とくにソ連内で、それは顕著で、ものの本によると、鉄橋など最重要拠点であったらしい。ただ、今に思えば、蒸気機関車の吹き出しの蒸気が危険だったからかもしれない。

 

 当時は、アンドロポフ書記長。冷戦のまっただ中ではあったが、軍事衛星の技術は進んでいるし、そんなか列車から映した写真にいかほどの意味があったか。なにせ、アメリカの大統領が、モスクワの空港についたとき一服したたばこの銘柄まで読み取れる技術があったのだから。

 

 ハルピンでも下車。この町はロシア風の建物も多い町。しかし、町中にでるわけでなく、ホームを歩いていると、能面のように表情が平板な男の一団に遭遇した。胸には金日成バッチ。北朝鮮からモスクワにいく列車を連結したらしかった。ちなみに、私がとおった同じ線路を1週間後、金日成がとおってモスクワに行ったことを知った。なんでも、飛行機嫌いだったらしい。そういえば息子も列車でロシアに行っていた。

 

 ひょっとして、テロで飛行機が墜落させられる、もしくは飛行機の技術とかに信用がおけないとかという気持ちだったのではないか。

 

 

  ハルピンを過ぎると、知った地名は大慶くらい。大慶は、その昔、「大慶に学べ」などというスローガンで、世界にその名が知られるところになった、中国では珍しい油田がある都市だ。しかし、そとはもう薄暗く、伺いしることはできない。コンビナートの影のようなものを伺い知るしかできなかった。

ハルピン以後は、この大慶ふくめて、まだ、8月の上旬というのに、セーターなしではホームに降り立っても、震えるだけで、降り立っても、すぐに客車に戻った。そう、はく息が白かったのを覚えている。

 

 ただ、駅名は失念したが、小さな駅に臨時に停車したときのこと、窓からその駅の様子をみていると、鉄の柵のむこう側に、人陰が何人か見えた。身長は大きな人、そしておそらく子供であろうか、低い人が10人ほど、そして後ろにも人がいるようには見えたが、暗くてわからない。なぜか、暗いんだけど、鋭い視線が、自分というよりもその列車にそそがれていた。

 

 いまもって、その一団がなんだったのか、やけに記憶の片隅からときに、思い出させてくれる。

 

第2章 大興安嶺越え、そしてシベリア鉄道

 

 国境越えの前夜。大興安嶺を、おそらくハルピンでみた蒸気機関車が、ときに、煙りを吐き出しながら、ぐんぐんと行った感じでのぼっていく。このあたりは、終戦まぎわ、ソ連との間で戦闘があったあたりではないかと思う。外は漆黒の闇。その窓ガラスにときに、蒸気機関車から吐き出された煙りが、部屋のあかりに照らされて、一瞬、ガラスにふれたかと思うと、また漆黒の闇にもどっていく。

 

 食堂車にいく。この夕食が最後の中華料理になる。あすには、ロシアの食堂車になるからだ。同室のHさんとビールで乾杯する。そんな食事の最中も、遠く、機関車の動輪がまわる音が

、ぐぐぐぐと床から響いてくるようだ。

 

 東京のネオン輝く町並みが、このいま列車でのぼっているこの闇夜が、同じ地球上に並列していることが、信じられない気持ちであった。

 

 たとえば、ニューヨーク、シカゴなどであれば、まだ、わかる。テレビをまわせば、ホテルによっては日本の番組だってリアルタイムにみることができる。外国語の世界とはいえ、自分の日常とかぶる面も多い。

 

 しかし、この闇の大興安嶺は、いま、自分が進んでいるのが、地球ではなく、他の惑星ではないか、と思わせる重みを私に感じさせた。私のカバンには日本の週刊誌も何冊か入ったままであったが、そこ書かれているゴシップは、まったく別世界の話ではないかと思いたくもなる。

 

 部屋につく前、車掌に頼んで、紅茶をいれてもらった。透明のガラスに底の部分ととってが、金属製になっている。外を見ながら暖かい紅茶を飲むと、心底あったまる気がした。

 

 あすは、国境の町、満州里。早朝の着になる。早めにベットに潜り込んだ

 

 

 朝、起きるとすぐにカーテンを開けた。うっすらともやのようなものがかかっている。平原のようなところを列車は進んでいる。ときどき、パオとか、放牧された馬や牛の姿をみることができる。人影はみることができなかった。

 

 いまは朝の6。国境の駅、満州里まで、時刻表のとおりならば、あと30分だ。

 

この国境の手続きで2ム3時間かかる。さきに言ったとおり、食堂車をロシア製に換えるのもそうだし、一番、難儀なのは、車輪の交換だ。これは、ソ連と中国の線路幅が異なることによる作業だ。もちろん、入国、出国手続きもあるし、両替えもしなくてはならない。というのも、中国の貨幣、人民元は海外に持ち出せないからだ。そしてこのころは、いまはなくなった、外国人専用の外貨兌換券という特殊な紙幣を使っていて、持ち帰っても、日本では両替えできない(今は一部の銀行での両替は可能)。

 

 そして、定刻より45分遅れで満州里駅につく。

 

 車掌は指示があるまで部屋で待てという。何分まっただろうか、中国の係官がパスポートを集めにくる。なんとなく不安な気持ちになる。なぜか?パスポートが、中ソ国境という、国際政治の駆け引きの場のような駅で持っていかれるわけだ。これが、不安でなくてなんであろう。そして、おりろとの指示。

 

 駅舎に入る。そう、人民元を両替しなくてはならない。両替は、日本円を人民元に両替したときにもらった計算書をいっしょに提出して両替をしてもらう。いくら両替したかは覚えていないが、日本円がかえってきた。

売店はあったが、免税店という国際空港にあるものは期待していなかったから、さほどの落胆はなかった。他の乗客は、たばこを買い求めていた。

それでも1時間ほど、駅にいて、列車にもどった。いよいよ国境越えだ。

 

 列車はこれまでにないくらい、ゆっくりとした速度で進む。このあたりは、国境の緩衝地帯。ダダッダダンと鉄路を進む。あとで知ったが。このとき、中華人民共和国の文字がはいったゲートをくぐったらしい。そして、ほどなくして、「CCCP」の大きな看板が車窓から目にはいってくる。

 

 CCCPは、オリンピックでよくソ連の選手が胸につけていたマークだが。この文字はロシア文字であって、CSPRの意味。なんの略かは忘れたが、Cのひとつはソビエト。もうひとつはソシアリストのCだったような気がするが記憶は定かではない。

 

 30分ほど、のろのろすすんで、停車する。まわりに駅舎は見当たらないが、列車は完全に停車した。しばらくすると、こつこつと誰かが歩いてくる。コンパートメントから、ひょいっと顔をだしてみると、ロシア人の兵士のような二人組が銃を肩にかけたままで、各部屋で入国手続きをしているようだった。

 

 何分ほど待っただろうか、その二人がわたしたちの部屋の前にとまった。そして、パスポートをみせろという。写真と顔を照合、本人と確認すると、ソ連のビザを切り離した(ソ連のビザはスタンプではなく、切り離し式。だから、ソ連に行ったという痕跡はパスポートには残らない)。

 

 

 これで入国手続きは完了かとおもいきや、

 

「新聞は持っていないか?」

 わたしは、成田で買った日経新聞を持っていたので、それを渡した。恐る恐るといった感じで。一人が新聞を手にし、ひとりはベットの寝台部分をはずし、懐中電灯で照らしはじめた。そして上段までベットの毛布のした、毛布をパンパンとたたく。そして、ちょうどドアの上の収納スペースを見始めた。

 

 要は密輸がないかを見ているらしい。しかし、そんなもの、あるわけがない。もちろん、トランクの中も調べさせられた。

 

 ふと、日経をうけとった兵士をみると、さかさに新聞をみている。それもさかさに持っている。逆だよ、それではと教えてやるとバツがわるそうに新聞をひっくり返した。

 

 よくこれで国境が守れるもんだと思った。ふたりとも、見た目は20代の兵士のようだった。おそらく日本語じたい、初めてみたんじゃないか。旅行社の話だと、日本語の活字ものは別の場所に持っていき、検閲されると聞いていたが、そういうことはなかった。

 

 その手続きが終わると、下車が許された。発車まで2時間近く時間があるという。

 

 さっそく500メートルほど離れた場所にある駅舎に入った。両替のためだ。   ロシアのルーブル紙幣を手にしないと、食堂車で今日から食事ができないからだ。

 

 長い行列だったが、40分ほどで番がきた。年齢不詳のふたりの女性が、大きな電卓をたたきながら作業をおこなっていた。

なにがどうっていうんじゃないが、手際が悪い。

 

 ただ、驚きだったのは、1万円札で両替えをして、おつりでかえってきたのが米国ドルだったこと。初めて手にする米国ドルが中ソ国境の街、ソ連のザバイカリスクとは冷戦最中でもあり、ある意味で、アメリカの大きさを実感させられた。

 

 両替を終えて外に出る。荷物を車内においたままで不安であったが、そとの空気はひんやりとして、吸い込むと、シベリアの冷気が肺のすみずみまで行き渡るような感じがした。

 

 すこしばかり歩くと、一緒になった日本人の女性Oさんが、スケッチブックを取り出して、スケッチをはじめていた。国境の写真撮影は厳禁だが、スケッチはいいのかなと思っていると、銃を肩にかけたソ連兵が近でいて、やめろと手でOさんのスケッチを制止した。

 

 でもスケッチしたくなる気持ちはわかる。緑の平原が多少の高低をもちながら、どこまでも広がっている風景は、写真といわず、記録にというよりも記憶にとどめたくなる。

 

「残念でしたね」

「でも、この目に焼き付いた風景はけせないわ」

 

たしかに。

 

 満州里、そしてソ連のザバイカリスクでつごう2。5時間停車かかったことになる。列車はゆっくりと進みはじめた。

 

いよいよ、シベリア鉄道である。

 

 

 シベリア鉄道にはいっても、車掌はおなじロシア人だし、寝台車もかわらない。ただし、食堂車がかわった。列車の運行時刻が、モスクワ基準になった。

 

 おかしな話なのだが、あれだけ広い国土を持ちながら、列車はモスクワ時間で運行されている。しかし、実際には最大9時間近い時差があるのだから、戸惑うことしきりで、結局のところ、腹時計を目安に動くしかない。

 

※確認のために書くが、中国は、新彊ウイグル自治区から、内蒙古チベット、北京、上海、広州、南の海南島にいたるまで、すべて北京時間で動く。

 

 とにかく、このシベリア鉄道では、食事が一番の楽しみ。その基準としては、腹時計が一番、信用がおける。

 

 ただ、腹時計は時に狂いを生じる。駅のホーム(というかホームというものは存在しないが)に地元の農家の人が食べ物を売りにきて、それで結構、お腹がふくれたりする。そうすると狂いが生じる。

 

 それからいくと、太陽の角度がいちばん分かりやすいのかもしれない。夕日とともに食堂車にいくわけだ。

 

 

 満州里からザバイカリスクをぬけて、タルスカヤまでは、シベリア鉄道本線とはちがい、むかし東清鉄道とよばれたルートである。ある意味で、支線。

 

 ちなみに日本史で大津事件という、ロシアの皇太子がおそわれる事件があったが、このとき皇太子はシベリア鉄道の全通を祝って、極東の日本まできていた。そのとき、日本で遭難した。

 

 タルスカヤまでは、まるで草原の草木の合間をぬって走るように、列車はすすんだ。わずかに開いた窓からは、夏とは思えない、冷たい空気が車内に流れ込む。ときに、迫った草木がその窓のすきまから、ぴらぴらという感じで車内をかすめていく。

 

 夕暮れなずむころ、シベリア本線に合流。なにしろ、ひっきりなしに貨物列車に出会う。それに、どいつもこいつも長い。このシベリア鉄道本線が幹線であることをうかがわせる。

 

 なかには、戦車などを積んだ貨物列車が、無防備にも、雨曝しのままで、何台ものせられていたりする。民需上はもちろん、軍需上もこのシベリア鉄道が大動脈であることを実感する。

 

 なんで、ハイウエーをつくらないんだろう、と思ったら、零下40度のなか、凍りついた道路は話にならないという。むろん、あれから20年近く、事態はかわっているかもしれない。

 

 また、中国ではなかったが、鉄橋には、かならず兵隊ではないが、番人がついていた。

 

 ところで、食堂車。かわったことは、いくつかある。値段のないメニューは、用意ができないというのはかわらないが、メニューの言語にエスペラントが加わった。

 

 窓際に普通の食パンより、ひとまわりくらい小さな黒パンが、10枚ほど、銀のお皿に盛り付けてあった。そばには、むかし、学校給食でパンとともにでてきた2センチ立方のサイズのバターがあったが、それににたようなものが、窓際に10個ほど置いてあった。

 

 このパン。けっこう癖になるおいしさで、おかわりは自由。なくなるとパンを足してくれる。白いパンもあったが、黒いパンのほうが、おいしく感じられた。

 

 でも、そのあと日本にもどって、いろいろな黒パンをたべたが、なかなか、「癖になる」黒パンには出会っていない。

 

 夏だが、ボルシチが、非常に美味しく感じられた。タイガ地帯をいく列車の窓からは、すっかり日の暮れた漆黒の闇がひろがるのみだった。

あすは、イルクーツクに着く。

 

 

3章 バイカル湖、そしてモスクワ

 

 北京から乗った列車も、とりあえず、イルクーツクで下車する。というのも、きっぷを手配すてくれた旅行社の配慮で、イルクーツクで一泊することになっていたからだ。

 

 シャワーのための宿泊。

 

 いまはどうかしらないが、そのときの3等寝台は、シャワーのような設備は、なかった。車中3泊。温度は低く、湿気もなく、汗まみれということはなかったが、どこか薄汚さを身に感じていた。

 

 そう、ホテルでゆっくり汗を流したいという気持ちは、おのずとわきあがっていた。

 

 朝。車掌は鼻歌まじりで、廊下を掃除している。いつにまして、ファミコンゲームのマリオおじさんに似た風体が、どこか飛び跳ねながら作業をすすめているように見えなくもなかった。

 

 本音をいえば、イルクーツクで降りることなく、まっすぐモスクワをめざしたいところだが、ソ連の場合、そしていまのロシアもそうらしいが、旅程は簡単にかえられない。バウチャーというクーポンに、旅程で必要なチケット引換証などがすべてつまっていて、それを旅行社からもらわないとビザ自体がおりない仕組みだからだ。

 

 当然、バウチャーの変更などできるわけがないし、できたとしても、法外な

チャージがとられるだけだ。

 

 イルクーツクの少し前の駅で、ホームなき駅におりると、向かい側にロシア号がはいってきた。

 

 モスクワとウラジオストックをむすぶ看板列車。

 

 いまは、ウラジオストックから乗ることができるようになったが、20年前は、ウラジオストックが軍港のため、外国人に開放されていなくて、日本人がシベリア鉄道に乗る場合、横浜から船に乗って、ナホトカにいき、そこから一泊の列車でハバロフスクまでいって、はじめて、このロシア号にのることができた。

 

 その赤い車体が入線してきたとき、非常にうきうきしたのを、きのうのように覚えている。

 

 ランチをたべるべく、食堂車へ。バイカル湖のほとりをはしりながら、なんともはや、その大きさに驚いた。

 

 琵琶湖の40倍の広さ。瀬戸内海が逆に湖に見える。

 

 水深40メートルまで透き通って見えるその湖は、冬はコチコチに凍ってしまう。実をいうとイルクーツクの手前に難工事があって、しばらくの間、冬のみ凍てついたバイカル湖の上に線路をとおして列車を走らせたらしい。

 

 それだけ極寒の地ということであり、第二次大戦後、シベリア抑留者の方々は、饒舌に尽くしがたい苦労をされてのだろうと思われた。

 

 イルクーツクに着く。

 

 スーパーマリオ車掌と握手をして、列車を降りる。

 

日本人6人。同じガイドがむかえにきて、インツーリストホテルにつれていかれる。

 

 イルクーツクでは、唯一、観光らしい観光をした。それは、バイカル湖観光。九州大の湖で、さきにも書いたが、水深40メートルまで透き通ってみえる。その湖までは、小型のマイクロバスにのせられ、つれていかれた。運転手、日本語のわかるインツーリストのガイドと、われわれ6人。

 

 まっすぐに伸びた道を、文字どおり全速力で進む。ところどころ、傾斜角度45度くらいあるのではないかとおもわれる坂も、全速力。

 

 まだ、死にたくない。

 

 まさにジェットコースターの昇り降りを、半分がたのきているソ連製の車でやられるときには、死を覚悟した。車のドアがガタガタ音をたてる。いや、車、全体がきしんでいたというべきか。

 

 あまりの激しさに分解するのでは、と思ったほど。

 

 そういった、悪夢をみたせいか、バイカル湖のほとりの浜辺についたときは、思わずホットした。そして、澄んだバイカル湖のほとりで、その水をフィルムをいれてあったプラステイックの円筒形の半透明ケースにすくいとってみると、たしかに濁りがない。

 

 このバイカル湖の水を飲むと10歳若返る(だったか)と聞いたが、はて、いまの私は10歳若がえったままか?

 

 そのあと、湖水の見えるレストランで食事をとったあと、小さな村につれていかれた。まるで、おとぎ話にでるような家が並んでいた。アルプスの少女ハイジにでてくるような家というべきか。

 

 その中心にある教会につれていかれた。

 

 まだ、社会主義国ソ連がイメージとしてあったから、教会の存在がイメージとして私の頭に像をむすばなかった。

 

 そして、そうそうにホテルに、またあの道を通ってかえった。荷物をピックアップして、そのまま駅へ。

 

 夕方の列車で、こんどはモスクワに向かう。のる列車名は、国際列車でも、ロシア号でもない、バイカル号。イルクーツクとモスクワを結ぶ特急で、車体はブルー。行き先表示板には、バイカル湖の風景が、描かれている。

 

 走る距離はまったくちがうが、シベリア鉄道の特急踊り子号といったところか。

 

 車掌は若い女性。コンパートメントに入るとすでに先客がいた。ロシア人の家族。お父さんはソ連の軍人だった。

 

 ソ連の軍人。米軍といったん戦端がきっておとされれば、まっさきに飛びだしていく。でも、まるで人形のように可愛い女の子、そして奥さん。そのだんなさんも、若き将校と言った感じだった。

 

 「ズドラーストビッチェ」

 

 そう挨拶をすると、どうぞどうぞと手招きする。

 

 いよいよモスクワまでの5000キロの旅が始まる。

 

 

そのソ連軍人家族は、にこやかに私とHさんを招き入れてくれた。そして座ると、これを飲めとコップを差し出す。

 

もちこんだ牛乳ビンの中から、ヨーグルトになりかけたような、多少、どろっとした飲み物をくれた。無気味に思いながらも口にすると、けっこうさっぱりとした自家製のヨーグルトのようであった。

 

 軍人さんは若き将校と言った感じの男で、小さな女の子をつれた、3人家族だった。奥さんは、ブロンドのそのだんなと同じ年格好の女性であった。

 

 むろん、外国人の歳ほどわからないものはない。そのとき30代の日本人女性とモスクワを歩いたが、モスクワっこに高校生か?と聞かれた。これは、ほんとうの話。

 

 この家族は、ときに夫婦が深刻そうな雰囲気で話をしたりしていたが、ときに、これまた家から持参してきたらしい、黒パンをふるまってくれたりした。

 

 その黒パンは、食堂車のものとはまたちがう風味をもっていたと記憶している。おそらく、食堂車は高いと知っていて、家から持ってきたのであろう。窓際に食料のはいった袋が置いてあり、2、3日はろう城できそうなくらいのパンやら果物がはいっていた。そのなかに、例の牛乳瓶も収納されていた。

 

 もちろん、夏でもシベリア、冷蔵庫は必要ない。

 

 この家族は、食堂車にいくでなく、この家族はすべてをコンパートメントで過ごしていた。

 

 そして、その一家は2晩をすごすまでもなく、二日めの深夜に、ボソボソという話し声とともに深夜の駅に降り立っていった。

 

 どこの駅かは覚えていない。

 

 おそらく、起こしてはまずいと気をきかせていたのだろうと思う。

 

 つぎの、乗客は学校の先生。20代の女性で英語も片言が喋れた。赴任先にむかうのだという。いろいろとロシアの同世代の人の話を聞きたいところであったが、逆に日本のことをいろいろ聞いてきた。

 

質問自体は、休みの日はなにをしているか?とか、大学は難しいのか?とか、生活費はどれくらい東京ではかかるか、とか日常的な内容であったが、それに、四苦八苦しながら、答えた。

 

 シベリア鉄道で、ロシア人相手に英語の勉強をすることになろうとは思ってもいなかった。

 

 それがまた、鉄のカーテンの向こうにも、生身の人間が生きていること、好奇心にあふれた人がいることを教えてくれたような気がした。

 

 乗り合わせたロシア人は、この他にも、ロシア人老夫婦がいた。背広の全面には、勲章がぎっしりとはりつけられていて、ロシア語が分からない私達に、手ぶり身ぶりでなにかを伝えようとしていた。

 

 手持ちの会話集や辞書を駆使してわかったのは、モスクワにくるんなら遊びにこいとさかんにさそっていたこと。勲章をいろいろと説明してくれたが、分からなかった。でも、あいづちをうったが、それがよかったのかどうか。

 

 おそらく第二次大戦などで戦ったくらいの年輩だったと思う。

 

 人のいい、まさに好々爺といっただんなさんに、よりそうような奥さんの姿が微笑ましかった。

 

 ところで、イルクーツクからは、インツーリストのガイドの女性が、私たちの監視役(?)についた。彼女は、ハバロフスクからパックでモスクワまで目指すモスパックというツアーの先導者だった。なにかにつけて世話をやきにきた。日本人は五人くらいいただろうか。それにわれわれがくっつく。

 

 そのうちの一人は、食堂車できいたところ、イルクーツクに着くまでに一度、ベットの二階から落ちたという。なんという強靭な身体の持ち主がいることか。

 

 あとアメリカ人のバックパッカー。騒がしいと思って廊下にでてみると、しゃもじのような細長いものに、マトリョーシカのような民芸品を置いて、それが落ちないように走って、その早さをきそっているようだった。

 

それでそのマトリョーシカが落ちたら落ちたら大騒ぎ。

 

ハバロフスクからもモスクワまで9000キロ。いろいろな出会いがある。

 

 さすがに20年前ともなると、記憶も断片的になる。それに、シベリア鉄道の旅行記で有名な、故宮脇俊三さんの「シベリア鉄道9400キロ」をあらためて読んでも、後半はページ数がうすい。これは思うに、おなじ質量で書き続けることが難しいことの証左ではないかと思う。

 

 それでも、記憶の鮮明な部分をつなぎ書くと、そこそこの量になってくる。それだけ、私にとって大きな経験だったということかもしれない。

 

閑話休題

 

 モスクワまでの間に、駅名は失念したが、何度かドキッとすることがあった。それは、15分近くあるので、ホームに面した駅舎をくぐりぬけ、駅前まででてみたことだ。イルクーツクのように町の中心に位置しているわけではないのか、トロリーバスが走っているが、車の量はさほどでもなかった。

 

 そういえば、元TBSの記者だった秋山さんがソユーズに乗って、宇宙に行ったことがあったが、あのとき、NASAはいろんなシステムの上にのっかって宇宙プロジェクトがすすんでいるけど、ソ連は、どこか人の力であげているという感想をもった記憶がある。

 

 人間くささと言おうか。

 

 あえていえば、NASAは新幹線。ソユーズ蒸気機関車といった感じだ。

 

 そんな駅前の風景をたのしみながら、ホームに戻ってみると、列車が動き始めているではないか。こんなシベリアの辺境の地で、一人おいてけぼりをくってはたまらない。幸いにして、動き始めてまもないころだったこともあって、女性車掌に手をとってもらい、なんとか車内におさまることができた。

 

 シベリア鉄道は、発車ベルや合図はないのである。へたをすると、かえってみると、ホームに列車がいないということにもなりかねない。

 

 気が付くとその女車掌、カップラーメンを食べている。三人組が日本からもってきたものを、車掌にプレゼントしたらしい。サモワールであつあつのお湯をいれて、おいしそうに食べていた。

 

 もう一つのドキッは、おなじ列車で北京からのりあわせたW氏。なにげに、おりたった駅で、すこし離れたところで動いていた機関車をカメラにおさめていたら、銃を構えた男が、どこからともなく近付いてきて、

 

 「なにをとっている!カメラをわたせ!」

W氏によれば、叫んでいたらしい(彼はロシア語ができた)。

 

 しかし、ここでロシア語でも喋ろうものなら、ちょっとこっちへこいと言われるのが山なので、日本語でしか応対をしなかったら、あきらめてどこかへ行ってしまった。

 

 国境でも感じたが、たしかに鉄道は軍事的に重要な施設に相違ないが、衛星でなんでも見通せるときに、素人のカメラで鉄道車両をとったことで、なんの実害があるのだろうか?それは、不思議でなかった。

 

 イルクーツクから4回めの夜。夕ご飯は、モスパックの連中と食堂車でいあわせたら、シャンパンがサービスでふるまわれた。いまにおもえば、その料金はどこかに含まれていたのかもしれないが、それでも、シベリア鉄道での最後の夜というのは、そこそこ感慨をもった。

 

 ただ、シベリア鉄道にはヨーロッパとアジアの境に塔がたっていて、それをみたかったが、いかんせん、その地点の通過が深夜のため、あきらめざるをえなかった。

 

 明け方、列車はもうモスクワまで3時間くらいのところまで来ている。キロポストも3桁だ。薄暗い外をみると、ローカル駅をいくつも通り過ぎる。あきらかに通勤列車の雰囲気の電車をいくつも追い抜いていく。

 

そして、モスクワ、ヤロスラブリ駅着。

 

北京モスクワ9000キロの終演であった。

 

しかし、旅は続く。

 

第4章 二都物語

 

 モスクワは、ホテルコスモスというモスクワオリンピックにあわせてつくられたホテルだった。白亜の建物で、地下には大盗聴施設があると聞いていたが、部屋のつくりをみていると、どれもが盗聴器にみえてくるから不思議だった。

 

 また、男性だと必ず、コールガールらしき女性が電話をかけてくるときいていたが、チェックインして部屋のドアをしめて、ひと休みしていると早速、電話がなった。

 

 とると英語かロシア語か、よくききとれないかんじの早口で女性がまくしたててきたが、もちろん、受話器をそのまま置いた。

 

 その後も、夜に一度かかってきた。ノーサンクスというと、わらって今度はむこうから電話を切った。

 

 私はH氏とモスクワ大学にむかった。私とH氏は同じホテル、あとモスパックのメンバーもこのホテルだった。

 

 H氏とそこにむかったのは、モスクワ大学がモスクワを見下ろす小高い丘の上にあり、そこから見る夜景がきれいだと聞いていたからだ。しかし、なかなか暗くならない。時計をみると9時近くなのにである。

 

 モスクワ大学の大きな塔の前で北朝鮮からの留学生(もちろん金日成バッチをつけていた)が、記念撮影なのか、カメラで写しあっていた。屈託のない、北朝鮮の人はこのときはじめてみた。国際列車で途中みた北朝鮮の人とは、雰囲気がちがっていた。やはり、開放感がそうさせているのだろう。

 

 あまり遅くなると、あすにさし支えるので、ホテルへ帰ったが、ここで困ったことがおきた。時計は10。すでに、どのレストランも食事のサービスは終わっており、酒とつまみしかないという。たしかにお金をだせば、それなりのものは食べられるが、贅沢をしない旅行のため、それはNG

 

 しかたなく、ホテル内のキオスクのような売店で、ウオトカ一ひと瓶と、なんとシュークリームを買い求め、部屋で二人で食した。シュークリーム?と思ったが、それ以外、お腹に入れるものがなかったのだから、仕方がない。

 

 当然、翌日は二日酔いになったが、ホテルの蛇口に口をつけて飲むわけにもいかず、これまた売店で買ったオレンジジュースで、肝臓機能に水分を送り込んだ。

 

 次の日は、おきまりのようにクレムリン赤の広場、そしてグム百貨店などを見て回った。グム百貨店は、赤の広場クレムリンの向かい側にある古いデパートで、ごったがえしていた。私はペンを求めたかったが、日本の文具みたく手ごろなものがなく、あきらめた。

 

 イルクーツクでみたトラックといい、ボールペンといい、すべてが軍需最優先の弊害なんだろうと思った。

 

 街中の移動は、地下鉄を使った。この地下鉄駅は宮殿のように豪華で雄大なつくりで、それも地中奥深くつくってある。そこへ至るエスカレーターが超高速。地下シェルターかわりという評判もさもありなんというところであった。

 

 その夕刻、H氏は飛行機で最終目的地ロンドンに向かい、私は列車で当時の地名でレニングラードにむかった。この列車は赤い矢号といい、夜2355にモスクワをたって、レニングラードに翌朝に着く。

 

 じつを言うと一週間もの間、寝台の生活をしていると、ホテルの揺れないベットに物足りなさをかんじた。しかし、車中一泊だけだと、これまたあっという間に感じられた。

 

 その列車では北京で一緒になった3人組と合流したが、レニングラードにつくと、また、別のホテルにつれて行かれた。

 

 わたしは、ホテルアストリアという由緒あるホテルに落ちついた。レニングラード攻防戦で、おとしたらここで祝杯をあげようとヒトラーが目論んでいたホテルである。エルミタージュ美術館も近い。聖イサク寺院が、部屋の窓からみえた。

 

 ベットはなんと、そのまわりに白いレースのカーテンが囲むようにかけられている。まるで、クレオパトラとか、楊貴妃がいつも寝ていそうなつくりのベットで、不思議なかんじがした。

 

 次の日にはもう、帰ることになっていたから、さっそくフロントにおりて、サーカスでもとおもったが、サーカス、オペラ、バレーいずれも月曜はお休み。

 

 月曜休みとは、日本の公立図書館もそうだけど、万国共通なのか、と思った。

 

 その日は、夏の宮殿をみたあと、エルミタージュ美術館を見て歩いた。夏の宮殿は船で、エルミタージュ美術館うらのネヴァ河のほとりから出ていた。

 

 鉄道にのって、9000キロをとびこし、ついにその先にある水辺にたどりついた。これは、ひとつの感動だった。

 

夏の宮殿には、奇妙奇天烈な噴水がたくさんある。まるで、噴水をつかったテーマパーク。ひととおり見て回ったあと、ここで昼食をとった。ようやく読めるようになったロシア文字でボルシチをみつけ、たのんだものの、でてきたのはさめたボルシチ。二つボルシチが並んでいたが、もうひとつにすればよかったと思ったが、後の祭りであった。

 

 

 ふたたび市内へ船でもどる。ネヴァ河ぞいにある刑務所あととか、を見てまわる。

 

 このネヴァ河の浜辺には、水着を着た老若男女が、短い夏を身体にとりこもうと必死になっているようにみられた。

 

 ちなみに、街角の温度計をみたら、午後2時で18度だった。ときは8月17

 

 ネフスキー大通りを歩く。時刻はそろそろ夕方。バレーやサーカスといった出し物がないからといって、これで部屋に帰るのも脳がない。それで、たまたま通りかかった映画館にはいった。

 

 ふたたび断っておくがロシア語は話せない。分からない。でも雰囲気をあじわってみたくはいった。

 

喜劇映画のようだったが、席はそこそこ、うまっていた。

 

 最初は白黒のニュースフィルム。意味がわからなくても、この農場ではこれだけ頑張っている、なんていう内容。それを共産党幹部が視察なんて内容であった(と思う)。

 

 はっきりいって、おもしろくない。

 

 みんな寝ていた。

 

 しかし、いったん本編がはじまると、爆笑の連続になった。わからなかったが、つられて笑った。

 

 でも、この頃、「モスクワは涙を信じない」なんていう名作映画もあった。さかのぼれば、「誓いの休暇」ってのもよかった。ソ連、ロシア映画は質が高かった。いまは、あまり聞かなくなったが、私が知らないだけか。

 

 部屋に着く。古いホテルゆえ、電気を消すと、古い時代の霊気が室内を渦巻いているように感じられ、すこし背筋が寒く感じられた。しかたなく、ラジオをつけっぱなしにし、電気をつけっぱなしにして寝た。

 

 薄暗い、まだ、闇夜がおりきっていない11。聖イサク寺院のシルエットが印象的だった。

 

 次の日は、再度、エルミタージュなどを見てまわり、ホテルへ戻る。

 

 喫茶室でコーヒーを飲んで、空港にいくまでの時間を待っていたら、フランス人の大学教授に話し掛けられた。一泊で帰るというと、なんともったいないと言われた。

 

 たしかに、この街は、運河が縦横に走り、モスクワがあるいみで政治の都市だったのかもしれないが、このレニングラードには、古い建物がそこかしこにみられ、とても、この地がかつて沼地だったとは信じられない。

 

 一人旅に近いこの街での思い出を胸に空港にむかった。

 

 今度は、はじめての夜行便で、9000キロを一気に駆け抜ける。

 

 しかし、空港に早く着き過ぎたので、腹ごしらえをする。熱いボルシチに黒パン、そして紅茶。これをトレイにのせてもらい、食した。みると、乗組員も食べている。ロシアで食べた、数少ないまともな食事だった。

 

 でも、ここで食べたのは正解だった。飛行機ででた機内食は、ビニールの袋に入った固めのりんごに、ビスケット、固いパン。とても食べられたそろものではない。それでも、下は漆黒の大地。反対側の窓は夕日があたり、反対側は闇夜。

 

 不思議な感覚だった。

 

 翌日、ハバロフスク着。掘建小屋のようなターミナルで荷物をうけとると、久々に暑い太陽にめぐりあった。

 

 軽い時差ぼけにはなったように記憶するが、ハバロフスクのホテルインツーリストにチェックインしたあと、私は例の3人組と、ハバロフスク市内を歩き回った。

 

 市内の博物館にはいると、アイヌの紹介コーナーもあり、この地区が、北海道、北方領土アイヌ民族にとっては、国家の枠をこえて生活の場であったことがしのばれた。

 

 ホテル近く、ベリョースカという外貨ショップに行き、土産物を買い、そとにでたところで、朝鮮族らしき50代くらいの男性に日本語で話し掛けられた。

 

「ベリョースカいきますか?」

サントリーのビール買ってきてください」

 

 想像するに、樺太とか北方領土につれていかれた朝鮮人なんだろうか、けっこう、うまく日本語を喋っていた。

 

「わたし京都に知り合いいます」

 

京都に知り合いがいるということで、警戒感を解こうとしたのだろうか?

 

なんとなく足早にその場を去ったが、あれからどうしたのだろうか?

 

 翌日は、列車でナホトカへ。またまた一泊の列車泊。

 

 この列車はみんなナホトカから横浜にむかう船に乗る乗客ばかり。1週間かけてレニングラードまで行き、2日でその距離を逆もどり。

 

 船の旅も陸中海岸沖の漁り火も幻想的な雰囲気でよかったし、時間ができるなら、今一度、同じルートを旅してみたいものだ。

 

                           (終)そ